カテゴリー別アーカイブ: 和歌山民俗研究所

高野町富貴 ① 生き神のこと

和歌山から紀ノ川に沿って県道55号線を遡っていく。
奈良に入ったところで山に向かってハンドルを切り、カーブを曲がりながら登っていくと中腹あたりで標識は再び和歌山県になった。途中には人家もなく、見えるのは山と空と路面のみ。ずいぶん登ってきたようで、見晴らしもよい。
今日の目的地は、和歌山県高野町の富貴(ふき)という集落だ。

くねくねと登ること約15分。
標高およそ600メートルの山上で不意に立派な屋敷や広い街道が現れてぎょっとする。ここが富貴。
隠れ里の風情を楽しみながら集落の中へ。

山上の小盆地に、これほど大きな集落が形成されたのは、ここが交通の要所であったから。宗教都市・高野山にも近く、十津川村や野迫川村、熊野方面へと通じる道がここで交差している。かつては産物を持ち寄った市が定期的に立ち、商店街が出来て旅館も数軒あったとか。

今は過疎が進んでいるようで、通りで人の姿を見かけることはなく、ひっそりしている。商店街に残った雑貨屋の店先で、日よけの布だけがパタパタと揺れていた。

そもそも富貴は高野山の寺領であり、漢字で「蕗」と書く里だった。農業と山仕事が盛んだったが、江戸時代に何度も大飢饉に見舞われて村を逃げ出す者もいた。当時、この集落で代官のような存在だった名迫伊光(なさこ これみつ)は困窮する人々に米や私財を分け与え、高野山に年貢の免除を願い出るなど村のために大いに尽くしたという。度重なる飢饉を乗り越えて「蕗」から「富貴」に改めたのは、「二度と飢えることのないように」と願いを込めてのことだろう。

下の写真は草に埋もれて朽ちていく旧家、名迫家の門構え。
無住となって長そうだが、ずいぶん立派なお屋敷だったことがわかる。

名迫伊光に感謝した村人たちは、彼がまだ生きているうちから「生き神」として手厚く祀った。
その祠、名迫明神は、屋敷から少し離れた高台に鎮座する。集落では今も、供え物の器や蝋燭台の入った「灯明箱」を順番に回して、持ち回りで守っているそうだ。

あちこち散策していると「成金」という名のバス停があった。
運行表を確認すると平日は1日に4本、土日は2本、五條市(奈良県)のイオンに行く小さなコミュニティバスが来る。和歌山県高野町に属しつつも、地理的、文化的に奈良県とのつながりの方が深いようだ。

バス停の横には「ここで写真を撮ると成金になれる」という看板。
山村をフィールドにしているような我々が成金になれるとは思えないが、せっかくなので撮影をする。
できることなら、あやかりたい。


近くには木材を並べた作業場があり、木工所の看板があった。奥に人の気配がしたので「こんにちは」と言うと「はぁい」と声はするが姿は見えず。
ふと地面を見ると車の下に潜り込んで修理中のようで、主らしい人物の足先だけが見えていた。

 

 

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高野町富貴 ② 松の薄板のこと

なんの前ぶれもなく立ち寄った我々を、快く迎えてくれたのは梶谷隆一さんと妻の静子さん。
梶谷木工所で製作していたのは、松の木を紙のように薄く削った板で「富貴の薄板」として知られる特産品だった。

山仕事が盛んだった富貴では、桧の廃材をカンナで削って紐(ひも)にする副業が伝統産業として受け継がれてきたが、松の木を削って薄板を作り始めたのは梶谷さんの父親が最初だったそうだ。

「昭和の25年頃に親父が苦労して、この土地で始めた。それが広まって最盛期は村に十数軒あったんやけど、薄板を作るのはもう、うち一軒だけになってしもた。桧の紐を作る人もほとんどないですね」
そう語る梶谷隆一さん。現在68歳で、富貴では若手である。

完成した薄板というものを見せてもらって「あっ」と思わず声が出た。
紅白まんじゅうの底に貼りついていた、あのペラペラのやつ?
昭和の頃は確か、こういうのが付いていた。サイズはもうちょっと小さいけれど。

隆一さんに尋ねると、「そうそう、まんじゅうの底にも付いてたやろ。この丸いのは茨城県の食品会社に出荷する分で、納豆の入れ物の底に敷くんです」と教えてくれた。一枚めくって手に取ると、向こうが透けて見えそうに薄くて、木目の風合いがくっきりと美しい。

下の写真は、舟納豆を包みこむ包装用の束。形や厚さは用途によって違うが、薄いものだと約0.15ミリ。
大きな原木からここまで削り、乾燥させて、束ねてゆく。

松は殺菌作用があり通気性に優れているため、食品の包装に古くから用いられてきた。だが近年、中国産の安価な薄板や、特殊加工の紙などに押されて需要が減っている。薄板を作る工房も、日本中に数軒しか残っていないそうだ。

「昔から富貴には、色が白くて軟らかい質のよい松の木が多かったんです。今は松茸を栽培するさけ山から松を伐り出せへんし、杉や桧の植林が増えて松が減ってるしね。原木を手に入れるのも難しくなってきた」

話を伺いながら、「かつては紀伊山地のあちこちに職人さんがいたのだろうな」と想像する。
薄板のことも初めて知ったけれど、色んな職人さんの手仕事が暮らしの中にあったのだ。

隆一さんは昨年、仕事中に木材の下敷きになり両足を骨折する大けがをした。
廃業も考えたが「他にやる人がないから続けてほしい」という顧客からの要望もあり、がんばって続けているという。

ちなみに今も、富貴の薄板と桧の紐を使って、酒まんじゅうを包装している和菓子屋さんが高野山にあるらしい。次に行ったら買わねば。

ふと思い立って、持っていた資料をお二人に見てもらった。
『高野・花園の民話』という本のコピー。昭和50年代後半、高野山内と周辺の集落を調査してまとめた本である。富貴の集落でも住民たちが昔の暮らしや民話について語り、そのインタビューがお名前や生まれ年とともに記録されている。

隆一さんはページをめくりながら「ああ、この人は死んだ」「この人も、この人も、もうおらんな」と繰り返す。
それはもちろん、そうだろう。当時、話者として協力したのは明治か大正生まれの方々だもの。
ところが途中で「あ、この人まだいてるわ」と、ぼそっとおっしゃる。「元気に百姓してはるで!」と静子さんも明るい声で相づちを打った。

「ほんとですかっ?」

我々もびっくりして資料を覗き込む。
富貴の妖怪について語った峯さんという方が、ご健在らしい。
まさかの展開。峯さんの連絡先を教えてもらい、慌ただしくお礼を言って再び集落へ。

 

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高野町富貴 ③ 妖怪「もるど」のこと

梶谷夫妻からの情報によると、峯さんは昼間、畑に出ておられるとのこと。
電話はやはりつながらず、「畑を探すしかないね」と人の気配がない集落を歩く。「ばったり出会えたら盛りあがるけど、会えないよねぇ、ふつう」と笑いながら。

なだらかな坂を登っていくと、前方で台車を押している上品そうなおばあさんを見つけた。慌てて駆け寄り、「このへんに峯さんというお宅はありませんか」と尋ねたら「うちですけども」とのお返事。

うまいこといきすぎて怖い。

しどろもどろで経緯を説明すると「お父さぁん!」と呼んでくださり、畑の奥からがっちりした体格の御老人が軽やかな足取りで現れた。
なんともお元気な、大正15年生まれの90歳。峯 貴一さん。

「ええと、あの、お聞きしたいのは”高野・花園の民話”の本に出てくる、もるどっていう妖怪のことなんですけど…」と、早速あやしい話を持ちかけた。
「もるど、な」とさらりと答えてくださったので、ほっとする。

今から30年ほど前、テープレコーダーを持って取材に訪れた鈴木さんという方に、貴一さんが話した妖怪の伝説は以下である。

もるどって、怪物あんのよ。虎や狼ってのは弓や鉄砲で成敗できんのやけど、もるどだけはどうしても成敗できんそうな。ほいで、この世の中で虎や狼より、もるどおとろしって言うことや。

ある年のことやけどもな、富貴村では、いつになく長雨が続いとったそうな。その日も、雨がしげく降っとった。夜になっても、なかなかやみそうもない。毎日の雨で、飢えた狼が遠くの山で吠え続けている。ほいだら、天井が急に激しくゆれ始めてなあ、蛸(たこ)のような怪物があらわれた。天井裏をニョロニョロと這うてるんや。一つの目は天をにらみ、もう一つの目は地をにらんで、足の先、手の先から水を吐くんやと。

もるどは一匹ではなく、部屋の中、土間、軒の入口と、数えることができんほどやった。主をはじめ、家のものは恐ろしさのあまり、肩を寄せ合い、何もできんとガタガタふるえておったそうな。
ちょっとして、雨もやんだんや。すると、もるども音ものう退散したって言うことや。主は言うたそうな。「この世の中で、虎、狼よりもるど恐ろし」

     話者・峯 貴一(富貴) 記録・鈴木

               昭和60年1月発行 『高野・花園の民話』より

庭先に腰掛けて、貴一さんは話す。
「もるどっていうのはな、しゃんとせな、家が雨漏りするって言う意味や。家が漏るっていうことはな、一番悲しいことやぞっていう先祖からの教えやな。勤勉に働きなさい。そやなかったら、家漏るど」

そう聞いた時、はっとして一瞬息が止まったと思う。
「もるど」は「モスラ」と同じアクセントだと思い込んでいたし、カタカナで妖怪モルド的にイメージしていたのだが読みが浅すぎた。家漏るど、であった。

「昔はみな、今みたいにがんじょうな家やない。みな藁(わら)葺きやな、藁葺きやなかったら皮葺きって言うてやな、桧や杉の皮でこさえたんや。虎や狼やったら狩人で成敗できるけども、漏るのは自分の力やなけりゃ成敗できんぞっていうこと。ほいで、しゃんとせなあかんぞって、わしはおじいさんにそう教えてもろた」

…そうだったのか。
にしても、海のものは塩サバぐらいしか入ってこなかったはずの集落に、蛸の妖怪が出没したとは不思議である。まぁ虎もいないけど。
ちなみに「もるど」には、漏奴という立派な漢字もあるそうだ。

『高野・花園の民話』には、「もるど」の他に「ぬめり」と呼ばれる富貴の妖怪も記録されている。
夜道を歩いていると丸太橋の上で、もやっと霧がかかる。そしてまるで目を塗られたようにまわりが真っ暗闇になる。なのに、なぜか空の星だけは見えるという。

「こんな山の中で暮らしは貧しいし、栄養が偏ってたんやろかい」と貴一さん。江戸時代の飢饉の話を思い出して「なるほど」と納得する。
「ぬめり」は「油揚げ三枚、帰ったら食べさすさかい」と言ったら目が見えるようにしてくれるらしい。「ぬめり」も「もるど」も、そう悪い奴らではないのだ。

時々ふと視線を上げて山並みを見渡しながら、貴一さんは色々と語ってくれた。
かつて富貴村が天誅組の焼き討ちにあったこと、名迫家の蔵から出てきた古文書のこと、先の戦争のこと、ひ孫が9人いる話。
そして別れ際、「また来てくれたら、いつでも話するで。ここは夏ぁ涼しいで」と目を細めて言ってくださった。

                  おわり

 

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熊野古道・藤白峠のエピソード

熊野聖域の入り口と言えば、ここ。和歌山県海南市の藤白神社である。熊野古道沿いにある九十九王子の中でも格式が高い王子社で、熊野詣での上皇たちも安全祈願に立ち寄っている。
1867年、境内にそびえるクスノキから名を授かったのは南方熊楠。「この名を受けしもの、病あるつど、件の楠神に平癒を祈る」と熊楠も記しているが、この巨木には子どもを守る「楠神さん」が宿っているのだ。

境内を通り抜けて、熊野古道へ。かつては宿場町だった集落から、峠にさしかかると右手に海が見えてくる。紀伊国屋文左衛門(きのくにや・ぶんざえもん)が江戸にミカンを運んだ港も、今や埋め立てられてタンクが並ぶ工業港。航行するタンカーのエンジン音を聞きながら歩く。

古道の脇には、可愛らしいお地蔵さんが一丁(約109メートル)ごとに現れる。距離を示し、道中の安全を守るために祀られたものだ。いくつかのお地蔵さんを通り過ぎて、ふと気がついたことがある。よく見ると、どのお地蔵さんのそばにも、小さな竹ぼうきが置かれているのだ。地元の方が掃除をされているのだろう。通っているのは、たぶん集落のお年寄り。「老人たちが亡くなったら、お地蔵さんはどうなるんやろ」と考えてしまった。今後は日本中の峠道で、多くのお地蔵さんが荒れ果てていくのだろうか。

この峠の見所は、筆捨松(ふですてまつ)と硯石(すずりいし)である。
筆捨松にまつわる伝説はこうだ。

平安時代、有名な絵師が熊野詣でに来て、ここで一人の子どもと出会う。絵師と子どもは互いに「自分のほうが絵がうまい」と言い張って、絵の描き比べをすることになる。絵師は松にウグイスを描き、子どもは松にカラスを描いた。どちらも上手に描けたようで、ウグイスとカラスは空に向かって飛び立った。そこで子どもが声をかけると、カラスは戻ってきて絵の中に納まった。しかし、絵師のウグイスはいくら呼んでも戻ってこない。絵師は「無念なり!」と叫んで筆を捨てました。と、いう話。

その子どもは熊野権現の化身で、絵師の慢心をいさめたのだとか。筆が根元に落ちたという松の木は、それ以来「筆捨松」と呼ばれている。

この出来すぎた伝説は、熊野信仰を広めようとの意図が見えすぎて私はあまり好みではないが、ちょっと面白いなと思うのが「硯石」のエピソードだ。
紀州徳川家の初代藩主である徳川頼宣が、なぜか筆捨松の伝説に過剰反応した。頼宣は巨大な石を硯の形に彫らせ、筆捨松の根元に据えた。筆を捨てたと伝わる場所に巨大な硯(すずり)を置くなんて、なんていうか、酔狂な殿様やなと思う。駄洒落みたいな話で、工事を命じられた職人たちもお気の毒なことだ。その事件が起こった現場がこちら。がっちりと柵で囲われているのが硯石である。へんな話。

山道を登り切ると、舗装された農道に出てしまう。藤白峠は反対側の下津から車道が通じているので、車で上がってくることも可能なのだ。街道沿いには、かつて旅籠を営んでいたような民家もあり、「蟻の熊野詣で」の時代を彷彿とさせる。
山頂にある地蔵峯寺に参拝。本堂の前にお接待のミカンが箱で置かれていたので、一個もらって階段に座って食べた。うららかな紀州の春の日に。

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九度山町の金時さん

和歌山県の北部、高野山の麓に広がる九度山(くどやま)町。紀ノ川沿いには弘法大師•空海の母が暮らした慈尊院があり、空海は月に九度、高野山から20キロの山道を下って母を訪ねてきた。それが地名の由来と語り継がれている。

また、九度山町には戦国時代の武将、真田幸村の屋敷跡に建てられた寺院、真田庵がある。小耳に挟んだ話では、2016年の大河ドラマの主人公が真田幸村に決まり、九度山町役場の3階から「真田丸 制作決定」の赤い幕が垂れ下がったとか。

しかし今回、私が九度山町を訪ねた理由はひとつ。世界遺産の慈尊院も、大河ドラマの真田庵もスルーして、目指すは米金(こめきん)の金時さん。川沿いの駐車場に車を置いて細い路地に入っていく。商店が並ぶ旧街道をしばらく歩くと、おられました。

金時さん

町家の軒先で、微妙なポーズの金時さん。大正の始め、九度山焼の作家、南紀荘平氏によって作られた陶像で、身長は約2メートル。南紀荘平さんは「天才肌の人」と町史に記されているが、写真に残るその風貌は、ロック魂あふれるアーティスト風だ。傲慢そうに壊れた感じが色っぽい。

(こちらでお顔が見られます)

荘平さんを主人公にしたドラマも作ってもらいたい。そう思いながら、付近をぶらっと歩くと電柱に真田幸村さん。

歴史街道

歴史街道

九度山町では大河ドラマの放映に備えて、インフラ整備も進めているようだ。無料の駐車場もあるし、以前に比べるとずいぶん散策しやすくなっていた。甲冑(かっちゅう)などの時代衣装で写真撮影する「コスプレ冬の陣」も開催されたそうで、チラシには「血のりOK!」と記されていた。

九度山の風景

小高い山の上から紀ノ川を望む。あたり一面は、みかんと柿の木。このまま川を遡って、大和(やまと)に行くのもよさそうだ。

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熊野古道・紀伊路のちょっと怖い話

熊野古道と言えば世界遺産に登録された中辺路などが有名だが、意外とおすすめなのが紀伊路。大阪から和歌山へ入り、海南、湯浅、御坊を経て田辺市に至るまでの古道だ。今回歩いてみたのは、広川町と日高町を結ぶ山越えルートの鹿ヶ瀬峠(ししがせとうげ)。

鹿ヶ瀬峠(ししがせとうげ)

全長503メートルの石畳は熊野古道に現存する石畳の中では最長のもので、周辺の木々も美しい。紀伊路には自然林も多く残っているので、あちこちから鳥のさえずりが聴こえるし、ちらちら降り注ぐ木もれ日も心地よい。

見るからに老いた巨木の根元に、小さな馬頭観音が祀られていた。傍らの案内板によると「馬の供養の墓として建てられています」とのこと。鹿ヶ瀬峠はたいへん険しい難所で、馬が越えるのも厳しかった。峠の下には「馬留王子(うまどめおうじ)」の跡があり、馬たちの休息場所だったという。

法華壇(ほっけだん)

1時間ほど歩いてようやく山頂。ぽっかり開けた空間には、かつて「とら屋」「玉屋」など数軒の旅籠(はたご)が並んでいたと聞く。少し下ると法華壇(ほっけだん)と呼ばれる供養塔があった。ここは養源寺の飛地境内で、実はちょっと怖い伝説が残る聖地だ。

昔、熊野を目指して歩いてきた僧、壱叡(いちえい)がこの場所で野宿をしていたら、深夜に経を読む声がどこからともなく聴こえてきた。びっくりしてあたりを見回しても誰もいない。そこにあったのは、赤い舌を震わせながら経を唱えるドクロだった。

ドクロの主は円善という名の僧侶。「私は生涯に法華経六万部を読む誓いを立てながら、この峠で果てた円善と申します。心願が成就するまで経を読み続けておりますが、間もなく終わることでしょう」と言った。

1年後、壱叡は再び鹿ヶ瀬峠を通りかかった。円善のドクロはすでになく、夜になっても読経は聞こえない。
「とうとう六万部を読み終えて、浄土へと旅立たれたのだな」  
深く胸を打たれた壱叡は、円善の亡骸があった木の下に台地を築いて供養塔を立てた。

円善の供養塔

その後、法華壇のそばには庵が結ばれ、養源寺のルーツとなった。現在、養源寺は広川町の海辺に移ったが、今でも円善上人の命日には檀家さんたちも一緒に山を登って法要を執り行っている。山頂にあった旅籠の子孫にあたる方々が、世話役を担っているそうだ。

法華壇には円善上人の名を刻んだ真新しい卒塔婆が立てられ、色鮮やかな花が活き活きと供えられていた。伝説と現実が溶けあって、トロトロに熟成されている話。

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アメリカ村「移民たちの故郷を歩く」

前回の記事を書いてから、何度かアメリカ村に足を運んでいる。いったい何をしに行っているのか自分でもよくわからないのだが、あえて言うなら妄想のため。迷路のような細い路地を歩いていると、時空の隙間に入り込んでいくようで心地よい。

集落の中は、いつもひっそりと静まり返っている。左右には廃屋も目につくし、雑草の生えた空き地に井戸だけがポツンと残っていたりする。数ヶ月前にあった古い家も、あっという間に取り壊されて更地になっていた。建物が消える時、物語をひとつ失ったような気がする。

岬の先端に向かうと、雑木林に囲まれた神社がある。龍王神社という名で、社殿の前には奇妙な形で息づくアコウの巨木。アジア東部に分布する亜熱帯植物で、和歌山県より北には自生していない。黒潮の流れに乗って、種子が運ばれてきたのだろうか。生々しく絡む枝を見上げていると、キジムナーのような精霊が座っている気がした。

龍王神社 アコウの巨木

拝殿に掲げられた寄進札には、円に混じって弗(ドル)の文字やバンクーバー、ウィニペグなどの地名も記されていた。カナダに移住した氏子たちからの寄進である。かつて、カナダに向かう人々はここで神に祈り、親きょうだいと水杯(みずさかずき)を交わしてから海を渡っていったそうだ。

龍王神社の寄進札

移民たちを乗せた船は神戸港を出発し、ひとまず横浜港へと向かう。その時、ここから沖を眺めて家族や縁者が見送り、船からは汽笛を鳴らして応えたという。
境内から見下ろすと荒々しい海。断崖にあたってくだける波の音、渦巻くように吹きつける風の音に包み込まれる。他ではなかなか体感できない音なので、海の荒れた日に訪ねると妄想にも拍車がかかっておすすめだ。

知る人は少ないが、実は神社の下には大きな洞窟が広がっている。資料によると入り口の幅は5メートル、高さ9メートル、奥行き26メートル。「三穂の石室(みほのいわや)」と言われ、地元の人でもあまり訪れることがないため太古のままの姿で残る。 
私が行った日はちょうど嵐で、洞窟の中まで激しく高波が押し寄せていた。這うようにして崖をのぼり、上から覗き見たのだがかなりの迫力。ちなみに古代人もこの洞窟に思うところがあったようで、流暢に和歌など詠み残している。万葉集に記録されているとか。

アメリカ村の洞窟

移民にも古代人にも興味がないのに、うっかりここまで読んでしまった方に耳寄りなお知らせがある。最近、アメリカ村にも古民家カフェができたのだ。ちらっとかいま見たランチは色とりどりで豪華だった。何もかも手作りだと聞いたので、「このランチ、800円でもとがとれるんですか」と下世話なことを尋ねたら「食べてくれる人がいる限り、手は抜けません」と店主が答えた。特に力むでもなく、さらっと。
私はクルミとアーモンドの自家製パンをいただいたが、噛むほどに良い味だった。店の場所はちょっとわかりにくいのだが、本気で探せば行き着く。

道草屋カフェの情報はこちら「道草屋」

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アメリカ村「海を渡った紀州の漁師たち」

アメリカ村(和歌山県日高郡美浜町三尾)

ここは紀伊半島の最西端、和歌山県日高郡美浜町三尾にある小さな漁村。アメリカ村と呼ばれるようになったのは大正時代の初期からで、カナダへの移民が盛んに行われたことに由来する。「カナダ移民なのに、なんでアメリカ村?」という疑問もあろうが、なんといっても時代は明治から大正だ。紀州の漁師たちから見たらたいして違いはなかったし、「地続きなんやから、どっちでもええやないか」という話。

移民のきっかけを作ったのは、三尾村の工野儀兵衛(くの ぎへえ)。一本釣り漁師の息子で工野家の長男。まじめで利口な大工だったが、紆余曲折あって人生に行き詰まる。仕事もせずに酒を浴びる日々の果てに、「どこか外国で、いちからやりなおそう」と一念発起。神戸、横浜を経由して単身でバンクーバーに密航したのは明治21年、儀兵衛34歳の時だった。

リッチモンドの港町、スティブストンに落ち着いた儀兵衛は、フレーザー河をさかのぼってくる鮭の大群に仰天して故郷に手紙を書いた。

「フレーザー河に鮭がわく!」

当時、三尾村では台風や津波の被害が続き、漁場争いの敗北もあって漁師たちは生活に困っていた。お先まっ暗だったところに、行方知れずだった儀兵衛から不意に届いた吉報。海の向こうに仕事を求めて「わしらも行こら!」と漁師たちは続々とカナダを目指す。

彼らはスティブストンで鮭漁に従事し、缶詰工場でもせっせと働いた。そして生活のメドが立つと妻子を呼び寄せ、三尾村に送金もした。おかげで貧しかった村は年々豊かになり、移民を志す者はますます増えていった。スティブストンには三尾村人会が結成され、明治42年には会員数が400名になった。

当初は出稼ぎ型の移民だったので、カナダに住む親たちは子どもの教育を日本で受けさせたいと考えた。子どもが就学年齢に達すると母と子は三尾村に戻り、父親はカナダで働いて金を送った。二つの国を行き来する家族の暮らしが、ここでは当たり前になっていく。
閑漁期に男たちがこぞって一時帰国をすると、村はにわかに華やいだ。カナダでは汚れた作業服で働いていても、帰ってきたら白いスーツにカンカン帽。それを見た子どもたちは「ぼくらもはよ行かなあかん」と憧れた。「男も女も、いっぺんアメリカ(カナダですけど)へ行って一人前」と誰もが言った。

村の郵便局にはカナダからの小包が山のように届き、大通りには外国航路の出港、帰港日を記す神戸港の表が貼付けてあった。ハイカラな服を着た子どもたちが路地で遊び、家の中には西洋風の家財道具。出稼ぎから帰った老夫婦はダブルベッドで休み、朝食はブレッドとコーヒー。集落のあちこちから「ユー」「ミー」と英語まじりの会話が聴こえた。

アメリカ村は、そんな漁村だったそうだ。

今、路地を歩いてみても、住民に出会うことはほとんどない。移民は出稼ぎ型から、晩年まで働いて帰国する長期移民に変わり、ここ数十年はもうカナダから里帰りする人もいなくなった。「アメリカ村」と書かれたバス停や空色の洋館が、かつての記憶をかすかに残しているだけ。

アメリカ村のバス停

アメリカ村(和歌山)の路地

アメリカ村(和歌山)の路地2

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