カテゴリー別アーカイブ: 旅の記事

むかし道・白山古道

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『旅の手帖』11月号で取材させてもらったのは、越前禅定道の起点に広がる白山平泉寺旧境内(福井県)です。(雑誌が出たのは先月なので、書店にはもうありません)
白山平泉寺は、奈良時代の僧・泰澄(たいちょう)によって開かれたとされる白山信仰の拠点寺院。平安時代の終わり頃に比叡山延暦寺の末寺となり、戦国時代には寺領9万石の巨大な宗教都市として栄えました。しかし天正2年(1574)に一向一揆の襲撃により全山焼失。その後、秀吉によって再興が図られましたが往時の隆盛を取り戻せず、明治の神仏分離令で寺号を廃して白山神社と改めたのです。

そんなドラマティックな歴史を持つ寺院跡は今、平泉寺白山神社を中心に約200haが国史跡に指定され、遺跡の発掘調査が進められています。発掘・復元された石畳の道も見どころのひとつで、僧兵たちが九頭竜川の石を運んで造ったと伝わるそうですよ。

境内にはたっぷりとぶあつい苔が一面に・・・。
かの司馬遼太郎さんも「冬ぶとんを敷き詰めたよう」と『街道をゆく』に記していますが、さすがにうまいこと言うなあと感心しました。ビロードより冬ぶとんでしょうね、ここは。

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三角形の屋根が乗ったような鳥居は、山王鳥居と言われ、神仏習合をあらわしているそうです。
夕暮れ時の境内が、深緑色につやつや光っていました。

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真夏でも山頂に雪をたたえ、豊かな水をもたらす美しい白山。その山容に女神の姿を重ねた古代人の心性が白山信仰の起源と言われます。img_20160902_175142

境内の森には、神秘的な気配を漂わせている泉がありました。千三百年前、白山の女神はこの泉から出現し、「はやく山頂に登っていらっしゃい」と泰澄に告げたとか。女神が導いてくれたおかげで泰澄は、霊峰・白山に初登頂を果たすことができたそうです。

 

この時、泰澄が開いたという登山道が越前禅定道と呼ばれ、境内の最奥部から始まります。山頂へと続く山岳修行の登山道は他に、石川県側から登る加賀禅定道、岐阜県側から登る美濃禅定道があり、3本を白山古道と呼ぶそうです。

実は今回、編集者さんや写真家さんたちと越前禅定道を途中まで登ったんです。あまりにハードで標高約777mの三頭山山頂で折り返しましたけど。
覚悟はしていましたが、これがもう、かなり険しい悪路。モンベルの登山靴もない時代に、多くの山岳修行僧が歩いた道だと思うと感慨深いものがありました。
途中でへたったとは言え、2週間かけて筋力トレーニングをして挑んだ取材なのでちょっと忘れがたいです。
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(ライター・北浦雅子)

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奥吉野の鬼の里

「私が子どもの頃はね、ここが世界中でいちばんの山奥やと思ってました」

しみじみ話してくれたのは、奈良県の天川村、洞川(どろがわ)温泉で500年続くという旅館の大将。

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夏の初めに洞川村まで行ったのは、雑誌の特集「暑さを忘れる名水の里」に掲載する記事を書くためだった。私が担当したのは奥吉野の”ごろごろ水”だ。

自称・山村ライターとしては、こういうところに飛ばされるのがたいへん嬉しい。
見よ、この景観。しかもここは、そんじょそこらの山村ではない。

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大峯山は1300年前、役行者によって開かれたと伝わる霊峰で、今も山伏姿の修験者たちが訪れる山岳信仰の登山基地。修験者をもてなしてきた洞川の人々は、役行者に仕えていた鬼の子孫であるという。「ここが世界中で一番の山奥やと思ってた」と話してくれた宿の大将も、鬼の末裔の一人というわけだ。
集落の標高は約850メートル。ここから紀伊山地の峰々を越えて、熊野に至る険しい山道が”大峯奥駆け道”である。

大峯山への登山口には女人結界門があり、女性の入山を今も禁じている。”女人結界”と刻まれた門の文字が仰々しい。「男たちよ、そんなに力むな」とちょっと思う。

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静岡から来たという尼僧たちが、結界門の前で熱心に法華経を唱えておられた。心地よく渋い声が森に響く。周囲が自然林なら、なお良かったのだけれど。

翌日、ごろごろ水が川となって流れ込む渓谷を散策した。山岳信仰を生んだ古代人の宇宙観には、水が深く関わっているというが、そういうことも山中を歩きながら考えるほうがわかりやすい。

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今回の完成誌はこちらです。↓
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古座街道

みちとおと 古座街道(1)〜(3)

更新しました。以下のサイトで読んでいただけたら嬉しいです。

http://www.michi-oto.com/kozakaidou1/

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高野町富貴 ① 生き神のこと

和歌山から紀ノ川に沿って県道55号線を遡っていく。
奈良に入ったところで山に向かってハンドルを切り、カーブを曲がりながら登っていくと中腹あたりで標識は再び和歌山県になった。途中には人家もなく、見えるのは山と空と路面のみ。ずいぶん登ってきたようで、見晴らしもよい。
今日の目的地は、和歌山県高野町の富貴(ふき)という集落だ。

くねくねと登ること約15分。
標高およそ600メートルの山上で不意に立派な屋敷や広い街道が現れてぎょっとする。ここが富貴。
隠れ里の風情を楽しみながら集落の中へ。

山上の小盆地に、これほど大きな集落が形成されたのは、ここが交通の要所であったから。宗教都市・高野山にも近く、十津川村や野迫川村、熊野方面へと通じる道がここで交差している。かつては産物を持ち寄った市が定期的に立ち、商店街が出来て旅館も数軒あったとか。

今は過疎が進んでいるようで、通りで人の姿を見かけることはなく、ひっそりしている。商店街に残った雑貨屋の店先で、日よけの布だけがパタパタと揺れていた。

そもそも富貴は高野山の寺領であり、漢字で「蕗」と書く里だった。農業と山仕事が盛んだったが、江戸時代に何度も大飢饉に見舞われて村を逃げ出す者もいた。当時、この集落で代官のような存在だった名迫伊光(なさこ これみつ)は困窮する人々に米や私財を分け与え、高野山に年貢の免除を願い出るなど村のために大いに尽くしたという。度重なる飢饉を乗り越えて「蕗」から「富貴」に改めたのは、「二度と飢えることのないように」と願いを込めてのことだろう。

下の写真は草に埋もれて朽ちていく旧家、名迫家の門構え。
無住となって長そうだが、ずいぶん立派なお屋敷だったことがわかる。

名迫伊光に感謝した村人たちは、彼がまだ生きているうちから「生き神」として手厚く祀った。
その祠、名迫明神は、屋敷から少し離れた高台に鎮座する。集落では今も、供え物の器や蝋燭台の入った「灯明箱」を順番に回して、持ち回りで守っているそうだ。

あちこち散策していると「成金」という名のバス停があった。
運行表を確認すると平日は1日に4本、土日は2本、五條市(奈良県)のイオンに行く小さなコミュニティバスが来る。和歌山県高野町に属しつつも、地理的、文化的に奈良県とのつながりの方が深いようだ。

バス停の横には「ここで写真を撮ると成金になれる」という看板。
山村をフィールドにしているような我々が成金になれるとは思えないが、せっかくなので撮影をする。
できることなら、あやかりたい。


近くには木材を並べた作業場があり、木工所の看板があった。奥に人の気配がしたので「こんにちは」と言うと「はぁい」と声はするが姿は見えず。
ふと地面を見ると車の下に潜り込んで修理中のようで、主らしい人物の足先だけが見えていた。

 

 

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高野町富貴 ② 松の薄板のこと

なんの前ぶれもなく立ち寄った我々を、快く迎えてくれたのは梶谷隆一さんと妻の静子さん。
梶谷木工所で製作していたのは、松の木を紙のように薄く削った板で「富貴の薄板」として知られる特産品だった。

山仕事が盛んだった富貴では、桧の廃材をカンナで削って紐(ひも)にする副業が伝統産業として受け継がれてきたが、松の木を削って薄板を作り始めたのは梶谷さんの父親が最初だったそうだ。

「昭和の25年頃に親父が苦労して、この土地で始めた。それが広まって最盛期は村に十数軒あったんやけど、薄板を作るのはもう、うち一軒だけになってしもた。桧の紐を作る人もほとんどないですね」
そう語る梶谷隆一さん。現在68歳で、富貴では若手である。

完成した薄板というものを見せてもらって「あっ」と思わず声が出た。
紅白まんじゅうの底に貼りついていた、あのペラペラのやつ?
昭和の頃は確か、こういうのが付いていた。サイズはもうちょっと小さいけれど。

隆一さんに尋ねると、「そうそう、まんじゅうの底にも付いてたやろ。この丸いのは茨城県の食品会社に出荷する分で、納豆の入れ物の底に敷くんです」と教えてくれた。一枚めくって手に取ると、向こうが透けて見えそうに薄くて、木目の風合いがくっきりと美しい。

下の写真は、舟納豆を包みこむ包装用の束。形や厚さは用途によって違うが、薄いものだと約0.15ミリ。
大きな原木からここまで削り、乾燥させて、束ねてゆく。

松は殺菌作用があり通気性に優れているため、食品の包装に古くから用いられてきた。だが近年、中国産の安価な薄板や、特殊加工の紙などに押されて需要が減っている。薄板を作る工房も、日本中に数軒しか残っていないそうだ。

「昔から富貴には、色が白くて軟らかい質のよい松の木が多かったんです。今は松茸を栽培するさけ山から松を伐り出せへんし、杉や桧の植林が増えて松が減ってるしね。原木を手に入れるのも難しくなってきた」

話を伺いながら、「かつては紀伊山地のあちこちに職人さんがいたのだろうな」と想像する。
薄板のことも初めて知ったけれど、色んな職人さんの手仕事が暮らしの中にあったのだ。

隆一さんは昨年、仕事中に木材の下敷きになり両足を骨折する大けがをした。
廃業も考えたが「他にやる人がないから続けてほしい」という顧客からの要望もあり、がんばって続けているという。

ちなみに今も、富貴の薄板と桧の紐を使って、酒まんじゅうを包装している和菓子屋さんが高野山にあるらしい。次に行ったら買わねば。

ふと思い立って、持っていた資料をお二人に見てもらった。
『高野・花園の民話』という本のコピー。昭和50年代後半、高野山内と周辺の集落を調査してまとめた本である。富貴の集落でも住民たちが昔の暮らしや民話について語り、そのインタビューがお名前や生まれ年とともに記録されている。

隆一さんはページをめくりながら「ああ、この人は死んだ」「この人も、この人も、もうおらんな」と繰り返す。
それはもちろん、そうだろう。当時、話者として協力したのは明治か大正生まれの方々だもの。
ところが途中で「あ、この人まだいてるわ」と、ぼそっとおっしゃる。「元気に百姓してはるで!」と静子さんも明るい声で相づちを打った。

「ほんとですかっ?」

我々もびっくりして資料を覗き込む。
富貴の妖怪について語った峯さんという方が、ご健在らしい。
まさかの展開。峯さんの連絡先を教えてもらい、慌ただしくお礼を言って再び集落へ。

 

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高野町富貴 ③ 妖怪「もるど」のこと

梶谷夫妻からの情報によると、峯さんは昼間、畑に出ておられるとのこと。
電話はやはりつながらず、「畑を探すしかないね」と人の気配がない集落を歩く。「ばったり出会えたら盛りあがるけど、会えないよねぇ、ふつう」と笑いながら。

なだらかな坂を登っていくと、前方で台車を押している上品そうなおばあさんを見つけた。慌てて駆け寄り、「このへんに峯さんというお宅はありませんか」と尋ねたら「うちですけども」とのお返事。

うまいこといきすぎて怖い。

しどろもどろで経緯を説明すると「お父さぁん!」と呼んでくださり、畑の奥からがっちりした体格の御老人が軽やかな足取りで現れた。
なんともお元気な、大正15年生まれの90歳。峯 貴一さん。

「ええと、あの、お聞きしたいのは”高野・花園の民話”の本に出てくる、もるどっていう妖怪のことなんですけど…」と、早速あやしい話を持ちかけた。
「もるど、な」とさらりと答えてくださったので、ほっとする。

今から30年ほど前、テープレコーダーを持って取材に訪れた鈴木さんという方に、貴一さんが話した妖怪の伝説は以下である。

もるどって、怪物あんのよ。虎や狼ってのは弓や鉄砲で成敗できんのやけど、もるどだけはどうしても成敗できんそうな。ほいで、この世の中で虎や狼より、もるどおとろしって言うことや。

ある年のことやけどもな、富貴村では、いつになく長雨が続いとったそうな。その日も、雨がしげく降っとった。夜になっても、なかなかやみそうもない。毎日の雨で、飢えた狼が遠くの山で吠え続けている。ほいだら、天井が急に激しくゆれ始めてなあ、蛸(たこ)のような怪物があらわれた。天井裏をニョロニョロと這うてるんや。一つの目は天をにらみ、もう一つの目は地をにらんで、足の先、手の先から水を吐くんやと。

もるどは一匹ではなく、部屋の中、土間、軒の入口と、数えることができんほどやった。主をはじめ、家のものは恐ろしさのあまり、肩を寄せ合い、何もできんとガタガタふるえておったそうな。
ちょっとして、雨もやんだんや。すると、もるども音ものう退散したって言うことや。主は言うたそうな。「この世の中で、虎、狼よりもるど恐ろし」

     話者・峯 貴一(富貴) 記録・鈴木

               昭和60年1月発行 『高野・花園の民話』より

庭先に腰掛けて、貴一さんは話す。
「もるどっていうのはな、しゃんとせな、家が雨漏りするって言う意味や。家が漏るっていうことはな、一番悲しいことやぞっていう先祖からの教えやな。勤勉に働きなさい。そやなかったら、家漏るど」

そう聞いた時、はっとして一瞬息が止まったと思う。
「もるど」は「モスラ」と同じアクセントだと思い込んでいたし、カタカナで妖怪モルド的にイメージしていたのだが読みが浅すぎた。家漏るど、であった。

「昔はみな、今みたいにがんじょうな家やない。みな藁(わら)葺きやな、藁葺きやなかったら皮葺きって言うてやな、桧や杉の皮でこさえたんや。虎や狼やったら狩人で成敗できるけども、漏るのは自分の力やなけりゃ成敗できんぞっていうこと。ほいで、しゃんとせなあかんぞって、わしはおじいさんにそう教えてもろた」

…そうだったのか。
にしても、海のものは塩サバぐらいしか入ってこなかったはずの集落に、蛸の妖怪が出没したとは不思議である。まぁ虎もいないけど。
ちなみに「もるど」には、漏奴という立派な漢字もあるそうだ。

『高野・花園の民話』には、「もるど」の他に「ぬめり」と呼ばれる富貴の妖怪も記録されている。
夜道を歩いていると丸太橋の上で、もやっと霧がかかる。そしてまるで目を塗られたようにまわりが真っ暗闇になる。なのに、なぜか空の星だけは見えるという。

「こんな山の中で暮らしは貧しいし、栄養が偏ってたんやろかい」と貴一さん。江戸時代の飢饉の話を思い出して「なるほど」と納得する。
「ぬめり」は「油揚げ三枚、帰ったら食べさすさかい」と言ったら目が見えるようにしてくれるらしい。「ぬめり」も「もるど」も、そう悪い奴らではないのだ。

時々ふと視線を上げて山並みを見渡しながら、貴一さんは色々と語ってくれた。
かつて富貴村が天誅組の焼き討ちにあったこと、名迫家の蔵から出てきた古文書のこと、先の戦争のこと、ひ孫が9人いる話。
そして別れ際、「また来てくれたら、いつでも話するで。ここは夏ぁ涼しいで」と目を細めて言ってくださった。

                  おわり

 

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みちとおと取材記

ウェブサイト「みちとおと 熊野古道中辺路」の取材記を久しぶりに更新しました。
今回は田辺の町を歩いてみました。

▼ 以下にリンクいたします。
中辺路の起点、田辺にて

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高野山で聴いた魅惑のマントラ

 

極楽橋駅からケーブルカーで上ってゆくと、山上はまさかの積雪であった。
3月も半ばだというのに。

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「奈良県でしょ?」とあっさり言われることもあるが、高野山は和歌山県。紀伊山地の北西、8つの峯々に囲まれた標高約900メートルの山上盆地である。

平安時代の初期、原生林に踏み込んで真言密教の霊場を築いたのは言わずと知れた弘法大師•空海で、今年がちょうど開創から1200年目にあたる。

山内は町全体が聖地で、今も117の寺院が密集している。そのうち52が宿泊客をもてなす宿坊寺院だ。精進料理や瞑想、朝勤行などを目当てにやって来る善男善女も多いが、世界遺産登録後は海外からの観光客も増え続けている。

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今回、泊めていただいた宿坊寺院は恵光院(えこういん)さん。目的は夜の奥之院を歩くナイトツアーに参加すること。
奥之院とは世界最大規模の巨大な墓地であり、弘法大師•空海が今も生きて瞑想を続けているという御廟(ごびょう)に続く参道である。そこを夜に、歩く。

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とはいえ、この雪なんですけど…。と、外を眺めてモヤモヤしていたら、なんと、降りやんだ。
夕食をすませて玄関に向かうと、ツアーに参加する宿泊客が集まっていた。ガイドをしてくださる僧侶の後に続いて、20代から80代の男女7人が山門を出る。

参道に並ぶ燈籠の明かりと懐中電灯を頼りに歩くのだが、きもだめしのゾクゾク感は特になし。
墓地のスケールがダイナミックすぎて、あまりに異空間なのだ。織田信長と明智光秀の墓がご近所さんだし。ちなみに明智光秀の墓石は、何べん造り直してもパカッと割れるのだとか。
まだ恨んでるかも。

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実は空海には、遣唐使として海を渡る31歳までの間に謎の7年間がある。どこで何をやっていたのか、全くわからない空白の7年。「高野の山中に籠って、修行をしていたのではないか」と僧侶が歩きながら話してくれた。唐から帰国した空海が、かつて山林修行をした”平原の幽地”に修禅道場を築いたと考えれば納得がいく。縄文的野生あふれる空海だから、原始の闇で大宇宙の真理を悟ったのかもしれん。

30分ほど歩くと最奥部の御廟に到着だ。
空海がここに入定(にゅうじょう)したのは、承和2(835)年3月21日のこと。入定とは、断食を経て魂が永遠に生き続ける状態に到達することで、真言密教に伝わる究極の修行である。

俗説によると、空海が入定した後、御廟に足を踏み入れた僧侶がいるらしい。
921年10月27日のことなので、御入定から86年後。彼は空海の頭髪を剃り、着物を着替えさせて再び扉を閉めたとか。

21日の前夜にあたる毎月20日、「夜参り」と称して御廟に参拝するのは後世の僧侶たちの伝統である。電気も懐中電灯もない時代の夜参りを思うと、さすがにブルッとする。
御廟の前に立った僧侶が、力強い声で般若心経を唱え始めた。その声が、杉木立の闇に吸い込まれていく。

ナイトツアー終了後の午後10時頃、壇上伽藍(だんじょうがらん)へ。

壇上伽藍、知ってます?
広大な境内にお堂や大塔などの建築群や仏像を配置し、大日如来(だいにちにょらい)の世界を表現した大伽藍である。難解な密教の教えを、目に見える形にしようと空海が構想した。その景観の中心をなすのが根本大塔(こんぽんだいとう)で、内部は極彩色の立体曼荼羅(まんだら)となっている。

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ここに立つと空海のロック魂を感じるし、根本大塔の中に、あの立体曼荼羅があると思うとサイケデリック•ロックな感じ。
類いまれなアーティストとしての空海像が浮かび上がってくる。
1200年前、空海は一体なにを、どんな風に幻視していたんだろうか。

ちょっと眠って翌朝6時、再び奥之院の参道に立つ。
御廟に食事を運ぶ儀式を見学するためだ。今も生きている空海こと「お大師さま」に、1日に2度、1200年間にわたって僧侶たちは温かい食事を運び続けている。
僧侶が亡くなれば次の僧侶が受け継いで、悠久の時を連綿と続いてきた営み。(給仕を担ってきた歴代の僧侶たちは、御廟内の様子を一切他言しない)

夜から朝に変わっていく薄紫色の中を、食事を担いだ僧侶たちが粛々と通り過ぎていった。

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早足で宿坊に戻り、朝勤行と護摩祈祷に参加。護摩祈祷とは炎で煩悩を浄める密教独特の神秘的な修法である。長年の煤(すす)で黒く煙った毘沙門(びしゃもん)堂には、パチパチと燃え上がる火の音と副住職の唱える真言(マントラ)が響く。
この迫力とグルーヴ、どうよ…。
隣で見入っていた外国人も「エキサイティング」と唸った。


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高野山では今春、開創1200年を記念した大法会や秘仏の初公開などの行事があるが、おすすめしたいのが高野山霊宝館で特別公開される空海の真筆『聾瞽指帰(ろうこしいき)』である。24歳の空海が出家の決意をしたためた力強い書で、当然ながら国宝。普段は複製が展示されていることが多いが、5月21日までは実物が見られる。青年、空海の気迫を1200年放ち続ける真筆を目の当たりにすると、その天才っぷりに惚れるし(私は読めないけど)時空を超えた感動ものなので、ぜひ。

「みちとおと(道と音)」とは熊野古道•中辺路を取材して、私たちが制作したウェブサイトのことです。「みちとおと日本」は、その続編。サウンドマップの縮尺を広域にすると、この記事の取材地に音のアイコンがあります。現地を探してクリックしてみてください。

 

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熊野古道・藤白峠のエピソード

熊野聖域の入り口と言えば、ここ。和歌山県海南市の藤白神社である。熊野古道沿いにある九十九王子の中でも格式が高い王子社で、熊野詣での上皇たちも安全祈願に立ち寄っている。
1867年、境内にそびえるクスノキから名を授かったのは南方熊楠。「この名を受けしもの、病あるつど、件の楠神に平癒を祈る」と熊楠も記しているが、この巨木には子どもを守る「楠神さん」が宿っているのだ。

境内を通り抜けて、熊野古道へ。かつては宿場町だった集落から、峠にさしかかると右手に海が見えてくる。紀伊国屋文左衛門(きのくにや・ぶんざえもん)が江戸にミカンを運んだ港も、今や埋め立てられてタンクが並ぶ工業港。航行するタンカーのエンジン音を聞きながら歩く。

古道の脇には、可愛らしいお地蔵さんが一丁(約109メートル)ごとに現れる。距離を示し、道中の安全を守るために祀られたものだ。いくつかのお地蔵さんを通り過ぎて、ふと気がついたことがある。よく見ると、どのお地蔵さんのそばにも、小さな竹ぼうきが置かれているのだ。地元の方が掃除をされているのだろう。通っているのは、たぶん集落のお年寄り。「老人たちが亡くなったら、お地蔵さんはどうなるんやろ」と考えてしまった。今後は日本中の峠道で、多くのお地蔵さんが荒れ果てていくのだろうか。

この峠の見所は、筆捨松(ふですてまつ)と硯石(すずりいし)である。
筆捨松にまつわる伝説はこうだ。

平安時代、有名な絵師が熊野詣でに来て、ここで一人の子どもと出会う。絵師と子どもは互いに「自分のほうが絵がうまい」と言い張って、絵の描き比べをすることになる。絵師は松にウグイスを描き、子どもは松にカラスを描いた。どちらも上手に描けたようで、ウグイスとカラスは空に向かって飛び立った。そこで子どもが声をかけると、カラスは戻ってきて絵の中に納まった。しかし、絵師のウグイスはいくら呼んでも戻ってこない。絵師は「無念なり!」と叫んで筆を捨てました。と、いう話。

その子どもは熊野権現の化身で、絵師の慢心をいさめたのだとか。筆が根元に落ちたという松の木は、それ以来「筆捨松」と呼ばれている。

この出来すぎた伝説は、熊野信仰を広めようとの意図が見えすぎて私はあまり好みではないが、ちょっと面白いなと思うのが「硯石」のエピソードだ。
紀州徳川家の初代藩主である徳川頼宣が、なぜか筆捨松の伝説に過剰反応した。頼宣は巨大な石を硯の形に彫らせ、筆捨松の根元に据えた。筆を捨てたと伝わる場所に巨大な硯(すずり)を置くなんて、なんていうか、酔狂な殿様やなと思う。駄洒落みたいな話で、工事を命じられた職人たちもお気の毒なことだ。その事件が起こった現場がこちら。がっちりと柵で囲われているのが硯石である。へんな話。

山道を登り切ると、舗装された農道に出てしまう。藤白峠は反対側の下津から車道が通じているので、車で上がってくることも可能なのだ。街道沿いには、かつて旅籠を営んでいたような民家もあり、「蟻の熊野詣で」の時代を彷彿とさせる。
山頂にある地蔵峯寺に参拝。本堂の前にお接待のミカンが箱で置かれていたので、一個もらって階段に座って食べた。うららかな紀州の春の日に。

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九州山地の銀鏡神楽

12月14日、またしても宮崎県へ。
今回は銀鏡(しろみ)神社の夜神楽を見るのが目的なので、ヒートテックはもちろん思いつく限りの防寒着を身につけて寝袋や毛布、懐中電灯を持参して臨む。

銀鏡に到着したのは、午後3時頃。山の谷間に77世帯ほどが暮らす、ひっそりした集落だ。まずは銀鏡神社に参拝。後ろにそびえる龍房山が、銀鏡神社のご神体だとか。(熊野から勧請した分霊を、山上に祀ったことが信仰の起源とも)

神さびて、美しい社。DSCF4233

続いて銀鏡神社の末社のひとつ、宿神三方稲荷神社に向かった。「面様迎えの行列」を見るためだ。大祭の当日は集落にある5つの末社から、それぞれご神体として祀られている面がやってくる。(その面をかぶって舞うとき、神が降臨するという)

2キロほど歩くと、山肌に小さな社が見えてきた。神職や社家の方々が集まって神事を執り行っている。神事が終わると面を背負い、笛やホラ貝を吹きながら銀鏡神社に向けて行列が始まった。

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そろそろ日も落ちてきた。「山間部の日没は早いな」と思いながら、お囃子に合わせてゆっくり後ろをついてゆく。神社の近くまで来ると、集落の人たちや見物人たちが橋の上で行列を待っていた。ここでお面様たちが合流し、大祭の舞台である銀鏡神社に入っていく。

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とっぷり日も暮れた頃、贄(にえ)が祭壇に奉納された。イノシシの頭だ。その年によって数は違うが、今年は五体。狩猟で命をつないできた銀鏡では、イノシシは神である。「シシは供えもんやない。神格や」と地元の古老に私は聞いた。シシたちは鼻先を空に向け、ずらりと並んで氏子たちの舞を見る。

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舞が始まったのは午後8時頃。屋台でたこ焼きとお酒を買って座敷にすわる。畳と屋根があるだけの、あけっぱなしの建物なので冷えた風がぴゅうぴゅう通り抜けている。
見学者は毛布などにくるまって、それでも震えながら見るのだが、舞人たちは屋根もない外神屋で薄そうな白い衣に白袴。「寒いだろうに」と思うと、私もまた寒い。夜神楽見物は、やっぱり過酷…。

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そうこうしているうちに神々も降臨。
集落のあちこちで祀られている神々が、次から次へと出現する。
面をつけて中心で舞う神を、人々は敬意を持って迎え、共に遊ぶ。

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午前3時頃、「綱神楽」という演目が始まると、数ヵ月前にインタビューさせてもらった古老が颯爽と登場した。片手に真剣を持ち、「はっ」という掛け声とともに蛇に見立てた縄を何度も飛び越える。たしか御年81歳。一睡もせず、氷点下の寒風の中で気迫たっぷりだ。
「たましい見せにゃ」とおっしゃっていたが、そうか、こういうことか。
見せてもらったかも。

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朝まで起きていようと、かぶりつきで意気込んでいたのに、空が薄明かるくなってきた5時過ぎにとうとう寝落ちしてしまった。「眠ったら凍え死ぬぞ」と警戒していたにもかかわらず、後ろにひっくり返って寝たもよう。次に気が付いたら、すっかり夜が明けていた。
よかったよ、目が覚めて。
そしてむっくり起きあがった瞬間の、目の前の光景がこれ。

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朦朧とした頭で「信じがたい…」と思う。
極寒の中で一晩中舞っているってすごくないですか。どう考えても。

ぼんやり眺めていたら、これまで見た舞の記憶がだんだん甦ってきた。
闇の中で見た神秘的な光景は、現実だったのだろうか。この世とあの世のあわいに落ち込んだようで、夢かウツツか、もうよくわからない。

すっかり陽がのぼって昼を過ぎた頃、最後から二番目の演目「ししとぎり」が始まった。イノシシ狩りの様子を狂言劇に仕立てたもので、老夫婦のやりとりがほのぼのと笑いを誘う。「ほいほーい」という、とぼけた掛け声を聞きながら、翁の股間にぶらさがった大根を凝視。
この大根は、いや男根は「山の神」への供物である。山の神は女性だから、お好きですよねという無邪気な発想。

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ちなみに「ほいほーい」とは、猟師たちが山で獲物を追い込む時のかけ声である。この地には「ほいほーい」と言いながら山を行き来している妖怪、カリコボーズもいるらしい。

「ししとぎり」の次は「神送り」。顔の前後に面をつけ、臼を担いで歩く2人と、杵を手にして踊り歩く人が現れた。神歌を歌いながら去ってゆく様子が、なんだか切ない。神と人が共に過ごす楽しい時間は終わってしまった…。物悲しい気持で後ろ姿を見送る。神々はおそらく、山中の異界に帰ったのだろう。

神送りが終わると贄も祭壇から下げられ、その肉と米を煮込んだ雑炊、シシズーシーが観衆にふるまわれた。山の生命体を、私の中にいただく。

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〈 みちとおと日本     文•写真/北浦雅子 〉

「みちとおと(道と音)」とは熊野古道•中辺路を取材して、私たちが制作したウェブサイトのことです。「みちとおと日本」は、その続編。サウンドマップの縮尺を広域にすると、この記事の取材地に音のアイコンがあります。現地を探してクリックしてみてください。

 

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