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『画家として、平和を希(ねが)う人として  〜加納辰夫(莞蕾)の平和思想〜』

   著者 : 加納佳世子        出版社 :  メディアイランド  (2015/3/10 発行)     Amazon

 

この本から強く感じたのは「個の力」の可能性。国家や組織という、得たいの知れない化け物のようなものに囲い込まれていると、「自分にできることは何もない」と無力感に捉われそうになりますが、実は本当に、一人ひとりこそが平和を実現していける存在なのだなと…。

内容を少し紹介します。本書は明治37年生まれの画家・加納辰夫氏の人物伝です。

島根県能義郡布部村(現在の安来市)に生まれた加納氏は、小学校の教員を経て画家となり朝鮮に渡ります。34歳で従軍画家の招集を受け、2年後には京城(ソウル)の高等学校で美術講師となりますが、昭和20年の敗戦で家族と共に郷里へと引揚げました。

その後、加納氏が家庭生活を犠牲にしてまで取組んだのは、フィリピンのモンテンルパ刑務所に捕らえられていた日本人戦犯の助命と釈放を求める嘆願活動でした。権力も地位も与えられていない一市民の立場でフィリピンのキリノ大統領に嘆願書を送り続け、「赦し難きを赦すという奇蹟によってのみ、人類に恒久の平和をもたらす」と訴えかけます。「人を殺すことで平和は実現できない、赦してこそ実現できる」との信念に基づいた行動でした。

第二次世界大戦の末期、キリノ大統領は妻と3人の子どもを日本兵に殺されています。想像を絶する悲しみと苦悩の中にありながら、大統領は昭和28年に日本兵108名(死刑囚59名、終身刑49名)を赦免するという寛大な措置をとりました。ひたすらに平和を希って行動する、ひとりの芸術家の心が届いたのです。

著者は、加納氏の四女である加納佳世子さん。加納氏がフィリピン政府と交わした書簡や当時の写真、友人との会話テープなどを参考に、その足跡をまとめておられます。加納氏は生前「わたしの助命嘆願の活動は、戦犯者の命を乞うものではない。次世代の平和は、どこから切り開くべきか提唱しているのだ」と繰り返し話していたそうです。その精神性と遺伝子を継いだ佳世子さんは、提唱を続ける役割を果たされているように感じます。

加納氏はキリノ大統領に向けて「私の責務は、全身全霊を持って、世界平和のために貢献することである」と書き送っています。戦後70年目の今、不穏な空気が漂う日本においても、その覚悟を持つことがいかに大切か。それぞれ一個人が平和を熱烈に求め、貢献していく努力を止めてはいけないのだと思います。

「あくまでも平和の基本は、児童を守ること。そして重要なことは国境を越え、どの国の子どもも大切に思うこと。それこそ平和を築く基本」と加納氏は語ります。本書にちりばめられた「基本」に触れるたびにドキッとしている自分を客観的に見て「ちょっと怖いな」と思いました。世界中から汚泥のようになだれ込む情報に呑み込まれて、無意識のうちに麻痺していたのだとしたらおそろしい。

108名の赦免がなされた時、佳世子さんは小学校3年生であったそうです。子ども心にフィリピンやキリノ大統領に親しみを感じ、友達にも「キリノ大統領はね…」と話していたとか。おしゃまな女の子を想像してほのぼのと心に残るエピソードですが、子どもが他国に憎悪を持たず、何となく親しみを感じるような環境から未来の平和は生まれてゆくのでしょう。

そして、ふと思ったのが明治23年に和歌山県の串本沖で遭難したトルコの軍艦、エルトゥールル号の事件のことです。この時、串本の住民たちが総出で乗組員を救出したことが、トルコが親日国である理由の一つだと言われます。
この美談は和歌山県の広報誌などでも繰り返しアピールされていますが、県民である私はそのアピールが少々こっ恥ずかしい。先人たちの偉業を和歌山県の誉れと無邪気に広報できるのも、トルコの国民が、日本や和歌山の人々への感謝を語り継いでくれているからに他なりません。

遭難者を助けたことと、戦犯者を赦免したことを同列で考えることはできませんが、それにしても、日本人はもっとフィリピンやキリノ大統領に感謝と尊敬の気持を持ち続けるべきだったのではないかと思うわけです。複雑な背景や、戦後処理の失敗があったにしても。

加納氏は晩年、「三十年にわたるわたしのフィリピン問題は、結局、わたしの拙い絵でございます。わたしは、あれは絵だったと思います」と話したそうです。読後、その意味を考えあぐねているのですが、はっきりとはわかりません。ただぼんやりと、芸術家の心の輪郭のようなものが見えつつあって、何だかずっと気になっているのです。

(北浦雅子)

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