作成者別アーカイブ: michi-oto

わかやま”和み”暮らし

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和歌山県が発行したパンフレット(いろどり相談室さま制作)です。古座川町、白浜町、紀美野町、すさみ町の4人の方のインタビュー記事を担当させていただきました。

 

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みちとおと・見老津から湯川へ

ウェブサイト「みちとおと」更新しました。

今回はすさみ町の見老津から串本町大島を経て那智勝浦町の湯川まで。写真を撮るのもだんだん面白くなってきました。

▼「みちとおと」取材記
http://www.michi-oto.com/eki/

 

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紀州浪漫

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2015年の夏号、龍神村と有田川町などを取材して、5ページほど書かせてもらいました。

 

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和歌山県の観光情報誌「紀州浪漫」2016年春号、2015年冬号の特集を書かせていただきました。紀州浪漫は発行部数100,000部でJR西日本の主な駅、JR東海の主な駅、和歌山駅及び近畿の主な道の駅などに配布されています。どこかで見かけたら、手にとっていただけたら嬉しいです。(きたうら)

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みちとおと・古座川

ウェブサイト「みちとおと」を更新しました。

今回は本州最南端のまち、串本町古座から、古座川町へ。
清流、古座川をたどってみました。

▼ みちとおと取材記 古座川
http://www.michi-oto.com/kozagawa/

 

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里山紀行・名草山

今年も残すところあと3週間。夏の終わり以降、忙しくしていたので運動不足で体がギシギシと固まっている。心もお肌もギシギシ…。
なんとせねば。
と、名草山(なぐさやま)に登ることにした。

名草山は和歌山市の海を見下ろす里山で、標高は228.7メートル。中腹には西国三十三所第2番札所である紀三井寺があり、山頂までは複数の登山コースがある。数年前から体力づくりのために時々歩いているのだけれど、30分ぐらいで山頂まで登れるし、市街地にありながら自然が豊かでいいところだ。足腰を鍛えるために上ってくる老人たちと出会うことも多いが、さすがに夕方なので誰もいない。

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近隣の御老人にとってみれば、名草山は子どもの時からの遊び場であり、山中を巡っている小径は集落と集落を結ぶ生活道でもあった。紀三井寺のお祭りに行く時は、小銭を握りしめて夜の山道を何度も往復したそうだし、お正月には山頂から初日の出を拝む風習があったとも聞く。人々の暮らしや信仰と密接に関わっていた里山だが、高度経済成長期以降は登る人もなくなり、道が荒れてしまった時代もあったそうだ。

登り口にイノシシのワナを見つけて、ちょっと緊張する。
私はまだ出会ったことはないが、けっこう生息しているらしい。

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落ち葉を踏むザクザクした音とか、録ってみた。名草山は自然の雑木林だから落ち葉がたくさんあるが、杉や檜の植林山に落ち葉はないですよ。

途中、一本の木が、幹に俳句を掲げて立っている。実はこの俳句、季節によって定期的に掛け替えられている。どなたの作かは知らないが風流なご趣味だし、どんな方だろうと思いつつ、もう何年も鑑賞させてもらっている。

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ここにも。

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もう冬なのに秋の句のままなのが気にかかる。作者はお元気だろうか。
いや、私が勝手におじいさんだと思い込んでいるだけなので、もしかしたら渋好みの小学生かもしれないです。

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山頂に着くと、夕日が海に向かって下りてゆくところだった。水平線にくっきり沈むのを見届けたいと思ったが、日が暮れるとイノシシの活動が始まるので危険である。後ろ髪を引かれながら、あたふたと下り始めた。もう少しで海に沈むのだけれど。

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写真と文 北浦雅子

 

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みちとおと取材記

ウェブサイト「みちとおと 熊野古道中辺路」の取材記を久しぶりに更新しました。
今回は田辺の町を歩いてみました。

▼ 以下にリンクいたします。
中辺路の起点、田辺にて

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books ①

『画家として、平和を希(ねが)う人として  〜加納辰夫(莞蕾)の平和思想〜』

   著者 : 加納佳世子        出版社 :  メディアイランド  (2015/3/10 発行)     Amazon

 

この本から強く感じたのは「個の力」の可能性。国家や組織という、得たいの知れない化け物のようなものに囲い込まれていると、「自分にできることは何もない」と無力感に捉われそうになりますが、実は本当に、一人ひとりこそが平和を実現していける存在なのだなと…。

内容を少し紹介します。本書は明治37年生まれの画家・加納辰夫氏の人物伝です。

島根県能義郡布部村(現在の安来市)に生まれた加納氏は、小学校の教員を経て画家となり朝鮮に渡ります。34歳で従軍画家の招集を受け、2年後には京城(ソウル)の高等学校で美術講師となりますが、昭和20年の敗戦で家族と共に郷里へと引揚げました。

その後、加納氏が家庭生活を犠牲にしてまで取組んだのは、フィリピンのモンテンルパ刑務所に捕らえられていた日本人戦犯の助命と釈放を求める嘆願活動でした。権力も地位も与えられていない一市民の立場でフィリピンのキリノ大統領に嘆願書を送り続け、「赦し難きを赦すという奇蹟によってのみ、人類に恒久の平和をもたらす」と訴えかけます。「人を殺すことで平和は実現できない、赦してこそ実現できる」との信念に基づいた行動でした。

第二次世界大戦の末期、キリノ大統領は妻と3人の子どもを日本兵に殺されています。想像を絶する悲しみと苦悩の中にありながら、大統領は昭和28年に日本兵108名(死刑囚59名、終身刑49名)を赦免するという寛大な措置をとりました。ひたすらに平和を希って行動する、ひとりの芸術家の心が届いたのです。

著者は、加納氏の四女である加納佳世子さん。加納氏がフィリピン政府と交わした書簡や当時の写真、友人との会話テープなどを参考に、その足跡をまとめておられます。加納氏は生前「わたしの助命嘆願の活動は、戦犯者の命を乞うものではない。次世代の平和は、どこから切り開くべきか提唱しているのだ」と繰り返し話していたそうです。その精神性と遺伝子を継いだ佳世子さんは、提唱を続ける役割を果たされているように感じます。

加納氏はキリノ大統領に向けて「私の責務は、全身全霊を持って、世界平和のために貢献することである」と書き送っています。戦後70年目の今、不穏な空気が漂う日本においても、その覚悟を持つことがいかに大切か。それぞれ一個人が平和を熱烈に求め、貢献していく努力を止めてはいけないのだと思います。

「あくまでも平和の基本は、児童を守ること。そして重要なことは国境を越え、どの国の子どもも大切に思うこと。それこそ平和を築く基本」と加納氏は語ります。本書にちりばめられた「基本」に触れるたびにドキッとしている自分を客観的に見て「ちょっと怖いな」と思いました。世界中から汚泥のようになだれ込む情報に呑み込まれて、無意識のうちに麻痺していたのだとしたらおそろしい。

108名の赦免がなされた時、佳世子さんは小学校3年生であったそうです。子ども心にフィリピンやキリノ大統領に親しみを感じ、友達にも「キリノ大統領はね…」と話していたとか。おしゃまな女の子を想像してほのぼのと心に残るエピソードですが、子どもが他国に憎悪を持たず、何となく親しみを感じるような環境から未来の平和は生まれてゆくのでしょう。

そして、ふと思ったのが明治23年に和歌山県の串本沖で遭難したトルコの軍艦、エルトゥールル号の事件のことです。この時、串本の住民たちが総出で乗組員を救出したことが、トルコが親日国である理由の一つだと言われます。
この美談は和歌山県の広報誌などでも繰り返しアピールされていますが、県民である私はそのアピールが少々こっ恥ずかしい。先人たちの偉業を和歌山県の誉れと無邪気に広報できるのも、トルコの国民が、日本や和歌山の人々への感謝を語り継いでくれているからに他なりません。

遭難者を助けたことと、戦犯者を赦免したことを同列で考えることはできませんが、それにしても、日本人はもっとフィリピンやキリノ大統領に感謝と尊敬の気持を持ち続けるべきだったのではないかと思うわけです。複雑な背景や、戦後処理の失敗があったにしても。

加納氏は晩年、「三十年にわたるわたしのフィリピン問題は、結局、わたしの拙い絵でございます。わたしは、あれは絵だったと思います」と話したそうです。読後、その意味を考えあぐねているのですが、はっきりとはわかりません。ただぼんやりと、芸術家の心の輪郭のようなものが見えつつあって、何だかずっと気になっているのです。

(北浦雅子)

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高野山で聴いた魅惑のマントラ

 

極楽橋駅からケーブルカーで上ってゆくと、山上はまさかの積雪であった。
3月も半ばだというのに。

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「奈良県でしょ?」とあっさり言われることもあるが、高野山は和歌山県。紀伊山地の北西、8つの峯々に囲まれた標高約900メートルの山上盆地である。

平安時代の初期、原生林に踏み込んで真言密教の霊場を築いたのは言わずと知れた弘法大師•空海で、今年がちょうど開創から1200年目にあたる。

山内は町全体が聖地で、今も117の寺院が密集している。そのうち52が宿泊客をもてなす宿坊寺院だ。精進料理や瞑想、朝勤行などを目当てにやって来る善男善女も多いが、世界遺産登録後は海外からの観光客も増え続けている。

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今回、泊めていただいた宿坊寺院は恵光院(えこういん)さん。目的は夜の奥之院を歩くナイトツアーに参加すること。
奥之院とは世界最大規模の巨大な墓地であり、弘法大師•空海が今も生きて瞑想を続けているという御廟(ごびょう)に続く参道である。そこを夜に、歩く。

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とはいえ、この雪なんですけど…。と、外を眺めてモヤモヤしていたら、なんと、降りやんだ。
夕食をすませて玄関に向かうと、ツアーに参加する宿泊客が集まっていた。ガイドをしてくださる僧侶の後に続いて、20代から80代の男女7人が山門を出る。

参道に並ぶ燈籠の明かりと懐中電灯を頼りに歩くのだが、きもだめしのゾクゾク感は特になし。
墓地のスケールがダイナミックすぎて、あまりに異空間なのだ。織田信長と明智光秀の墓がご近所さんだし。ちなみに明智光秀の墓石は、何べん造り直してもパカッと割れるのだとか。
まだ恨んでるかも。

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実は空海には、遣唐使として海を渡る31歳までの間に謎の7年間がある。どこで何をやっていたのか、全くわからない空白の7年。「高野の山中に籠って、修行をしていたのではないか」と僧侶が歩きながら話してくれた。唐から帰国した空海が、かつて山林修行をした”平原の幽地”に修禅道場を築いたと考えれば納得がいく。縄文的野生あふれる空海だから、原始の闇で大宇宙の真理を悟ったのかもしれん。

30分ほど歩くと最奥部の御廟に到着だ。
空海がここに入定(にゅうじょう)したのは、承和2(835)年3月21日のこと。入定とは、断食を経て魂が永遠に生き続ける状態に到達することで、真言密教に伝わる究極の修行である。

俗説によると、空海が入定した後、御廟に足を踏み入れた僧侶がいるらしい。
921年10月27日のことなので、御入定から86年後。彼は空海の頭髪を剃り、着物を着替えさせて再び扉を閉めたとか。

21日の前夜にあたる毎月20日、「夜参り」と称して御廟に参拝するのは後世の僧侶たちの伝統である。電気も懐中電灯もない時代の夜参りを思うと、さすがにブルッとする。
御廟の前に立った僧侶が、力強い声で般若心経を唱え始めた。その声が、杉木立の闇に吸い込まれていく。

ナイトツアー終了後の午後10時頃、壇上伽藍(だんじょうがらん)へ。

壇上伽藍、知ってます?
広大な境内にお堂や大塔などの建築群や仏像を配置し、大日如来(だいにちにょらい)の世界を表現した大伽藍である。難解な密教の教えを、目に見える形にしようと空海が構想した。その景観の中心をなすのが根本大塔(こんぽんだいとう)で、内部は極彩色の立体曼荼羅(まんだら)となっている。

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ここに立つと空海のロック魂を感じるし、根本大塔の中に、あの立体曼荼羅があると思うとサイケデリック•ロックな感じ。
類いまれなアーティストとしての空海像が浮かび上がってくる。
1200年前、空海は一体なにを、どんな風に幻視していたんだろうか。

ちょっと眠って翌朝6時、再び奥之院の参道に立つ。
御廟に食事を運ぶ儀式を見学するためだ。今も生きている空海こと「お大師さま」に、1日に2度、1200年間にわたって僧侶たちは温かい食事を運び続けている。
僧侶が亡くなれば次の僧侶が受け継いで、悠久の時を連綿と続いてきた営み。(給仕を担ってきた歴代の僧侶たちは、御廟内の様子を一切他言しない)

夜から朝に変わっていく薄紫色の中を、食事を担いだ僧侶たちが粛々と通り過ぎていった。

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早足で宿坊に戻り、朝勤行と護摩祈祷に参加。護摩祈祷とは炎で煩悩を浄める密教独特の神秘的な修法である。長年の煤(すす)で黒く煙った毘沙門(びしゃもん)堂には、パチパチと燃え上がる火の音と副住職の唱える真言(マントラ)が響く。
この迫力とグルーヴ、どうよ…。
隣で見入っていた外国人も「エキサイティング」と唸った。


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高野山では今春、開創1200年を記念した大法会や秘仏の初公開などの行事があるが、おすすめしたいのが高野山霊宝館で特別公開される空海の真筆『聾瞽指帰(ろうこしいき)』である。24歳の空海が出家の決意をしたためた力強い書で、当然ながら国宝。普段は複製が展示されていることが多いが、5月21日までは実物が見られる。青年、空海の気迫を1200年放ち続ける真筆を目の当たりにすると、その天才っぷりに惚れるし(私は読めないけど)時空を超えた感動ものなので、ぜひ。

「みちとおと(道と音)」とは熊野古道•中辺路を取材して、私たちが制作したウェブサイトのことです。「みちとおと日本」は、その続編。サウンドマップの縮尺を広域にすると、この記事の取材地に音のアイコンがあります。現地を探してクリックしてみてください。

 

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『ノジュール』(JTBパブリッシング)

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2015年10月号で「おとなの白浜さんぽ」の取材記事を執筆しました。
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2015年3月号「開創1200年を迎える聖地・高野山」の中で、「宿坊で仏教体験」と「”お大師さん”物語のある高野山参道の名店」(P86-91)を書かせていただきました。知れば知るほど高野山は不思議なところです。取材に行ったときは雪景色の高野山で、それもまた良かった。

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TURNS(第一プログレス)

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2016年12月号でアイターンの方へのインタビュー記事を担当させていただきました。

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2016年4月号で、アイターンの方々への取材記事を執筆させていただきました。インタビューさせていただいたのは和歌山県田辺市、日高川町、串本町の皆様です。

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2016年1月号でアイターンの方々への取材記事を執筆させていただきました。和歌山県古座川町と奈良県東吉野村に移住されたおふたりです。

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