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高野町富貴 ① 生き神のこと

和歌山から紀ノ川に沿って県道55号線を遡っていく。
奈良に入ったところで山に向かってハンドルを切り、カーブを曲がりながら登っていくと中腹あたりで標識は再び和歌山県になった。途中には人家もなく、見えるのは山と空と路面のみ。ずいぶん登ってきたようで、見晴らしもよい。
今日の目的地は、和歌山県高野町の富貴(ふき)という集落だ。

くねくねと登ること約15分。
標高およそ600メートルの山上で不意に立派な屋敷や広い街道が現れてぎょっとする。ここが富貴。
隠れ里の風情を楽しみながら集落の中へ。

山上の小盆地に、これほど大きな集落が形成されたのは、ここが交通の要所であったから。宗教都市・高野山にも近く、十津川村や野迫川村、熊野方面へと通じる道がここで交差している。かつては産物を持ち寄った市が定期的に立ち、商店街が出来て旅館も数軒あったとか。

今は過疎が進んでいるようで、通りで人の姿を見かけることはなく、ひっそりしている。商店街に残った雑貨屋の店先で、日よけの布だけがパタパタと揺れていた。

そもそも富貴は高野山の寺領であり、漢字で「蕗」と書く里だった。農業と山仕事が盛んだったが、江戸時代に何度も大飢饉に見舞われて村を逃げ出す者もいた。当時、この集落で代官のような存在だった名迫伊光(なさこ これみつ)は困窮する人々に米や私財を分け与え、高野山に年貢の免除を願い出るなど村のために大いに尽くしたという。度重なる飢饉を乗り越えて「蕗」から「富貴」に改めたのは、「二度と飢えることのないように」と願いを込めてのことだろう。

下の写真は草に埋もれて朽ちていく旧家、名迫家の門構え。
無住となって長そうだが、ずいぶん立派なお屋敷だったことがわかる。

名迫伊光に感謝した村人たちは、彼がまだ生きているうちから「生き神」として手厚く祀った。
その祠、名迫明神は、屋敷から少し離れた高台に鎮座する。集落では今も、供え物の器や蝋燭台の入った「灯明箱」を順番に回して、持ち回りで守っているそうだ。

あちこち散策していると「成金」という名のバス停があった。
運行表を確認すると平日は1日に4本、土日は2本、五條市(奈良県)のイオンに行く小さなコミュニティバスが来る。和歌山県高野町に属しつつも、地理的、文化的に奈良県とのつながりの方が深いようだ。

バス停の横には「ここで写真を撮ると成金になれる」という看板。
山村をフィールドにしているような我々が成金になれるとは思えないが、せっかくなので撮影をする。
できることなら、あやかりたい。


近くには木材を並べた作業場があり、木工所の看板があった。奥に人の気配がしたので「こんにちは」と言うと「はぁい」と声はするが姿は見えず。
ふと地面を見ると車の下に潜り込んで修理中のようで、主らしい人物の足先だけが見えていた。

 

 

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高野町富貴 ② 松の薄板のこと

なんの前ぶれもなく立ち寄った我々を、快く迎えてくれたのは梶谷隆一さんと妻の静子さん。
梶谷木工所で製作していたのは、松の木を紙のように薄く削った板で「富貴の薄板」として知られる特産品だった。

山仕事が盛んだった富貴では、桧の廃材をカンナで削って紐(ひも)にする副業が伝統産業として受け継がれてきたが、松の木を削って薄板を作り始めたのは梶谷さんの父親が最初だったそうだ。

「昭和の25年頃に親父が苦労して、この土地で始めた。それが広まって最盛期は村に十数軒あったんやけど、薄板を作るのはもう、うち一軒だけになってしもた。桧の紐を作る人もほとんどないですね」
そう語る梶谷隆一さん。現在68歳で、富貴では若手である。

完成した薄板というものを見せてもらって「あっ」と思わず声が出た。
紅白まんじゅうの底に貼りついていた、あのペラペラのやつ?
昭和の頃は確か、こういうのが付いていた。サイズはもうちょっと小さいけれど。

隆一さんに尋ねると、「そうそう、まんじゅうの底にも付いてたやろ。この丸いのは茨城県の食品会社に出荷する分で、納豆の入れ物の底に敷くんです」と教えてくれた。一枚めくって手に取ると、向こうが透けて見えそうに薄くて、木目の風合いがくっきりと美しい。

下の写真は、舟納豆を包みこむ包装用の束。形や厚さは用途によって違うが、薄いものだと約0.15ミリ。
大きな原木からここまで削り、乾燥させて、束ねてゆく。

松は殺菌作用があり通気性に優れているため、食品の包装に古くから用いられてきた。だが近年、中国産の安価な薄板や、特殊加工の紙などに押されて需要が減っている。薄板を作る工房も、日本中に数軒しか残っていないそうだ。

「昔から富貴には、色が白くて軟らかい質のよい松の木が多かったんです。今は松茸を栽培するさけ山から松を伐り出せへんし、杉や桧の植林が増えて松が減ってるしね。原木を手に入れるのも難しくなってきた」

話を伺いながら、「かつては紀伊山地のあちこちに職人さんがいたのだろうな」と想像する。
薄板のことも初めて知ったけれど、色んな職人さんの手仕事が暮らしの中にあったのだ。

隆一さんは昨年、仕事中に木材の下敷きになり両足を骨折する大けがをした。
廃業も考えたが「他にやる人がないから続けてほしい」という顧客からの要望もあり、がんばって続けているという。

ちなみに今も、富貴の薄板と桧の紐を使って、酒まんじゅうを包装している和菓子屋さんが高野山にあるらしい。次に行ったら買わねば。

ふと思い立って、持っていた資料をお二人に見てもらった。
『高野・花園の民話』という本のコピー。昭和50年代後半、高野山内と周辺の集落を調査してまとめた本である。富貴の集落でも住民たちが昔の暮らしや民話について語り、そのインタビューがお名前や生まれ年とともに記録されている。

隆一さんはページをめくりながら「ああ、この人は死んだ」「この人も、この人も、もうおらんな」と繰り返す。
それはもちろん、そうだろう。当時、話者として協力したのは明治か大正生まれの方々だもの。
ところが途中で「あ、この人まだいてるわ」と、ぼそっとおっしゃる。「元気に百姓してはるで!」と静子さんも明るい声で相づちを打った。

「ほんとですかっ?」

我々もびっくりして資料を覗き込む。
富貴の妖怪について語った峯さんという方が、ご健在らしい。
まさかの展開。峯さんの連絡先を教えてもらい、慌ただしくお礼を言って再び集落へ。

 

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高野町富貴 ③ 妖怪「もるど」のこと

梶谷夫妻からの情報によると、峯さんは昼間、畑に出ておられるとのこと。
電話はやはりつながらず、「畑を探すしかないね」と人の気配がない集落を歩く。「ばったり出会えたら盛りあがるけど、会えないよねぇ、ふつう」と笑いながら。

なだらかな坂を登っていくと、前方で台車を押している上品そうなおばあさんを見つけた。慌てて駆け寄り、「このへんに峯さんというお宅はありませんか」と尋ねたら「うちですけども」とのお返事。

うまいこといきすぎて怖い。

しどろもどろで経緯を説明すると「お父さぁん!」と呼んでくださり、畑の奥からがっちりした体格の御老人が軽やかな足取りで現れた。
なんともお元気な、大正15年生まれの90歳。峯 貴一さん。

「ええと、あの、お聞きしたいのは”高野・花園の民話”の本に出てくる、もるどっていう妖怪のことなんですけど…」と、早速あやしい話を持ちかけた。
「もるど、な」とさらりと答えてくださったので、ほっとする。

今から30年ほど前、テープレコーダーを持って取材に訪れた鈴木さんという方に、貴一さんが話した妖怪の伝説は以下である。

もるどって、怪物あんのよ。虎や狼ってのは弓や鉄砲で成敗できんのやけど、もるどだけはどうしても成敗できんそうな。ほいで、この世の中で虎や狼より、もるどおとろしって言うことや。

ある年のことやけどもな、富貴村では、いつになく長雨が続いとったそうな。その日も、雨がしげく降っとった。夜になっても、なかなかやみそうもない。毎日の雨で、飢えた狼が遠くの山で吠え続けている。ほいだら、天井が急に激しくゆれ始めてなあ、蛸(たこ)のような怪物があらわれた。天井裏をニョロニョロと這うてるんや。一つの目は天をにらみ、もう一つの目は地をにらんで、足の先、手の先から水を吐くんやと。

もるどは一匹ではなく、部屋の中、土間、軒の入口と、数えることができんほどやった。主をはじめ、家のものは恐ろしさのあまり、肩を寄せ合い、何もできんとガタガタふるえておったそうな。
ちょっとして、雨もやんだんや。すると、もるども音ものう退散したって言うことや。主は言うたそうな。「この世の中で、虎、狼よりもるど恐ろし」

     話者・峯 貴一(富貴) 記録・鈴木

               昭和60年1月発行 『高野・花園の民話』より

庭先に腰掛けて、貴一さんは話す。
「もるどっていうのはな、しゃんとせな、家が雨漏りするって言う意味や。家が漏るっていうことはな、一番悲しいことやぞっていう先祖からの教えやな。勤勉に働きなさい。そやなかったら、家漏るど」

そう聞いた時、はっとして一瞬息が止まったと思う。
「もるど」は「モスラ」と同じアクセントだと思い込んでいたし、カタカナで妖怪モルド的にイメージしていたのだが読みが浅すぎた。家漏るど、であった。

「昔はみな、今みたいにがんじょうな家やない。みな藁(わら)葺きやな、藁葺きやなかったら皮葺きって言うてやな、桧や杉の皮でこさえたんや。虎や狼やったら狩人で成敗できるけども、漏るのは自分の力やなけりゃ成敗できんぞっていうこと。ほいで、しゃんとせなあかんぞって、わしはおじいさんにそう教えてもろた」

…そうだったのか。
にしても、海のものは塩サバぐらいしか入ってこなかったはずの集落に、蛸の妖怪が出没したとは不思議である。まぁ虎もいないけど。
ちなみに「もるど」には、漏奴という立派な漢字もあるそうだ。

『高野・花園の民話』には、「もるど」の他に「ぬめり」と呼ばれる富貴の妖怪も記録されている。
夜道を歩いていると丸太橋の上で、もやっと霧がかかる。そしてまるで目を塗られたようにまわりが真っ暗闇になる。なのに、なぜか空の星だけは見えるという。

「こんな山の中で暮らしは貧しいし、栄養が偏ってたんやろかい」と貴一さん。江戸時代の飢饉の話を思い出して「なるほど」と納得する。
「ぬめり」は「油揚げ三枚、帰ったら食べさすさかい」と言ったら目が見えるようにしてくれるらしい。「ぬめり」も「もるど」も、そう悪い奴らではないのだ。

時々ふと視線を上げて山並みを見渡しながら、貴一さんは色々と語ってくれた。
かつて富貴村が天誅組の焼き討ちにあったこと、名迫家の蔵から出てきた古文書のこと、先の戦争のこと、ひ孫が9人いる話。
そして別れ際、「また来てくれたら、いつでも話するで。ここは夏ぁ涼しいで」と目を細めて言ってくださった。

                  おわり

 

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熊野古道・藤白峠のエピソード

熊野聖域の入り口と言えば、ここ。和歌山県海南市の藤白神社である。熊野古道沿いにある九十九王子の中でも格式が高い王子社で、熊野詣での上皇たちも安全祈願に立ち寄っている。
1867年、境内にそびえるクスノキから名を授かったのは南方熊楠。「この名を受けしもの、病あるつど、件の楠神に平癒を祈る」と熊楠も記しているが、この巨木には子どもを守る「楠神さん」が宿っているのだ。

境内を通り抜けて、熊野古道へ。かつては宿場町だった集落から、峠にさしかかると右手に海が見えてくる。紀伊国屋文左衛門(きのくにや・ぶんざえもん)が江戸にミカンを運んだ港も、今や埋め立てられてタンクが並ぶ工業港。航行するタンカーのエンジン音を聞きながら歩く。

古道の脇には、可愛らしいお地蔵さんが一丁(約109メートル)ごとに現れる。距離を示し、道中の安全を守るために祀られたものだ。いくつかのお地蔵さんを通り過ぎて、ふと気がついたことがある。よく見ると、どのお地蔵さんのそばにも、小さな竹ぼうきが置かれているのだ。地元の方が掃除をされているのだろう。通っているのは、たぶん集落のお年寄り。「老人たちが亡くなったら、お地蔵さんはどうなるんやろ」と考えてしまった。今後は日本中の峠道で、多くのお地蔵さんが荒れ果てていくのだろうか。

この峠の見所は、筆捨松(ふですてまつ)と硯石(すずりいし)である。
筆捨松にまつわる伝説はこうだ。

平安時代、有名な絵師が熊野詣でに来て、ここで一人の子どもと出会う。絵師と子どもは互いに「自分のほうが絵がうまい」と言い張って、絵の描き比べをすることになる。絵師は松にウグイスを描き、子どもは松にカラスを描いた。どちらも上手に描けたようで、ウグイスとカラスは空に向かって飛び立った。そこで子どもが声をかけると、カラスは戻ってきて絵の中に納まった。しかし、絵師のウグイスはいくら呼んでも戻ってこない。絵師は「無念なり!」と叫んで筆を捨てました。と、いう話。

その子どもは熊野権現の化身で、絵師の慢心をいさめたのだとか。筆が根元に落ちたという松の木は、それ以来「筆捨松」と呼ばれている。

この出来すぎた伝説は、熊野信仰を広めようとの意図が見えすぎて私はあまり好みではないが、ちょっと面白いなと思うのが「硯石」のエピソードだ。
紀州徳川家の初代藩主である徳川頼宣が、なぜか筆捨松の伝説に過剰反応した。頼宣は巨大な石を硯の形に彫らせ、筆捨松の根元に据えた。筆を捨てたと伝わる場所に巨大な硯(すずり)を置くなんて、なんていうか、酔狂な殿様やなと思う。駄洒落みたいな話で、工事を命じられた職人たちもお気の毒なことだ。その事件が起こった現場がこちら。がっちりと柵で囲われているのが硯石である。へんな話。

山道を登り切ると、舗装された農道に出てしまう。藤白峠は反対側の下津から車道が通じているので、車で上がってくることも可能なのだ。街道沿いには、かつて旅籠を営んでいたような民家もあり、「蟻の熊野詣で」の時代を彷彿とさせる。
山頂にある地蔵峯寺に参拝。本堂の前にお接待のミカンが箱で置かれていたので、一個もらって階段に座って食べた。うららかな紀州の春の日に。

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